日生劇場レ・ミゼラブル千秋楽!!(6)
4月25日(火) マチネ
ジャン・バルジャン:別所哲也
ジャベール:岡幸二郎
エポニーヌ :新妻聖子
ファンテーヌ:マルシア
コゼット:剱持たまき
マリウス:岡田浩暉
テナルディエ:駒田一
テナルディエの妻:森公美子
アンジョルラス:東山義久
何度も呟いていることだけれど、
セーヌの川底にも、救済の白い光が射しこむこと
彼の魂に想いを馳せながら願っています。
学生の死を悼む市井の女たちの歌には
生きることの現実に向き合っている逞しさをも感じる。
カフェソングは、ずっと何か唐突なメロディと感じていた。
それまでの楽曲と、色調も異なるし、
もう、「演歌」に聞こえていたのですね、私の中で。
(野口五郎が歌っていた当時ならさぞやでしょう…)
いくら、作曲家が、世界の音楽事情に詳しかろうと、
極東の「演歌」は知らないだろうなぁ~と。
強いてあげれば、ファドとか、そっちの方面からの
インスピレーションなのかな~とか、この曲に関しては
とっても引っかかるものを感じてました。
特に「♪ああ、友よ~」のあたりなんか、完全に演歌のサビ!!
津軽海峡の灰色の海や、打ちつける波音が聞こえてきそうです。
(ってあたりがある意味ファドにも通じる?
あるいは、帰れソレントなどイタリア民謡にも通じるような…
そう考えると、ヨーロッパ人の作曲であることに無理はない?)
しかも、マリウスの役自体、色ボケ(失礼!)で、
周囲のシリアスさから浮きだっているようにしか
見えていなかったですから(役柄自体唐突と感じていた。)
今ごろ、そんな、嘆かれてもなぁ~
エポもアンジョもバルジャンも、みな君のため命を賭けていたのに…
と、もっとも引き気味で見ていた場面。
(“影”の学生たちのカッコ良さ度と身長チェックはしてたけど(~o~))
でも、岡田マリウスに出会って、マリウスの存在の意味が
すこんと腑に落ちて、そして、このカフェソングも「演歌」から
「ファド」あたりへ昇格。マリウスの慟哭も理解。
しかし、いつも思うのですが、この後の場面展開、盆の廻りが速くて
思いっきり脚を引きずりながら歩くマリウスに
足取りもしっかりしてきたと告げるコゼットの科白、
ちょっと、無理やりっぽくないですか?
上手から現れるバルジャン。
マリウスの回復がコゼットの幸福に繋がると知りつつも
そして、それを最も願っているのに、
手塩にかけた娘を手放す父親の寂しさ
(これは、どの世界の父親にも通じる普遍の感情でしょう。)
そして、この時点で、コゼットの前から姿を消す決意をしていたでしょうから、
二度と会うことがない・・・彼女へ対する深い愛と惜別。
その初老となり丸くなった背中に、なお、十字架を背負いつつ
まるで、神父に告解をするがごとく、マリウスに過去の罪を告白するバルジャン。
バルジャンの祈りと贖罪が成就されるためには
マリウスという存在が必要だったんだ~とつくづく思う。
マリウスの意味がやっと理解できた。
だから、ここでバルジャンを受け入れるタイプのマリウスも
私は好き。(でも、そうする、となんで、引き止めないんだよ~
という思いも募るのだが)
岡田マリウスの、バルジャンの過去を嫌悪する演技プランは
え~ちょっとそれはないんじゃないのっ?
今までのバルジャンの保護を思えば、
(この時点で下水道のことは知らないにせよ)帳消しだろうが!と
思わず、マジで腹立ったりするのですが、
バルジャンを引き止めないことが自然ではある。
バルジャンは彼らを神に預け、独り立ち去っていく。
その後の、結婚式に続く「♪佳き日にベルを鳴らそう~」
のメロディラインが賛美歌チックで
神の祝福のイメージがより想起される。
このウエディングのシーンも、実は今まであまり意識的には
観てなかった。なにか、すでにぼーっとしていて
立ち去ったバルジャンに想いは飛んでいる。
けれど、この日は、給仕の東山くんのダンスは必見!
というコたちの声に押され?給仕を注視。
いや~踊ってますね!!かなり激しく。楽だから?いつもこんなん?
知りませんでした。給仕によって、いろいろこのあたりで小芝居?
入れてること。(ホント芝居観てないね>自分)
エピローグの細く揺れる蝋燭の火が
すでに、命の灯火の儚さを示唆しているよう。
大切に大切にその燭台を慈しむバルジャン。
梅芸楽の観劇記で記述したように、
まるで宗教画のように美しく深く胸を突いてきた、別所バルジャンの佇まい。
彼の背後に、石造りのチャペルの高い壁と、ロマネスク様式の小さな窓が
幻想のように浮かんで見えた。
そのいくつかはブラインドアーチで光は射しこまず
しかし、またいくつかは、細い僅かな光をバルジャンに与える。
彼の汗と祈りと愛で築き上げた、簡素なチャペル。
この場面は私が観始めてからの短い間にも、別バル
だんだんと弱りっぷりがパワーアップ(←ってなにか表現ヘン?)
とある日の観劇で、その弱りっぷりに、思わず留守番部隊にメール送信!
マジでテーブルから椅子へ辿り付けないかとドキドキしてしまったほど。
マザーテレサが、路傍で倒れている人々を、
その全員を保護することは出来なくても、
可能な限り引き受け、その死を見届けるという行為の中で、
高度な治療を与えることも、病を治すことも出来ないけれど
死ぬときだけはせめて孤独ではなく、誰かに手を握られ愛を
与えられたという実感のもとで天に召させてあげたいという
ことをおっしゃってましたが(正確な文言を記憶してないのですが
確か、そのような主旨と理解してます。)
ファンティーヌの死、そして、最期の最期にバルジャンが、
コゼットとマリウスに看取られたことを目撃し、
ふっとそんな事を想い出しました。
人間は、誰かに必要とされている実感が幸福の形でもあると。
なので、なお一層、ジャベールの死が悲しくもある。
でも、きっと彼は「誰かに見守られながら」死んだりはしないのだろうな~
との思いもあるのですが。
ちょっと、話がズレました。
エピローグはすべてが美しいですね。
なにかしら美しいものに触れるというのは
「衝撃」を受けることのひとつでもある。
初見時ワケも分からず号泣してしまったこと、
そして、やはり常に滂沱となってしまうこと。
「誰かを愛することは神様のお傍にいることだ」
という、自分が絶対届きそうもない境地への憧憬とか
さまざまな感情が交じり合う。
バルジャンが、その肩から重き十字架を降ろして
昇天する姿は神々しいというより、やっと
ひとりの普通の人間らしくなったような感じがする。
すっくりと背を伸ばし、もう一度自由な人生を歩いていけるような。
別バルの天を見上げる姿。見知らぬ世界を眺め回すように
束の間視線を左右に配る。
今自分が旅立つ新たな場所を眩しそうに…
そして、すべての憂慮から解放されて見守るコゼットとマリウスへの
眼差しが、それまでになく穏やかであることが、
真に荷を降ろせたのだ、と安堵させてくれる。
天から降る歌声の美しさ。
そして、それは、しっかりと現実の声と変化し、
私たちに明日もなんとか生きてけるだろうとの希望を与えてくれる。
『神様が創ったミュージカル』
私は、心から、その言葉に共感してます。
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